二の章  神無の冬
 (お侍 extra)
 



     
大団円と、それから



 お昼時になって、里でも名代の蛍屋名物、春の御膳が供される。錦糸玉子の黄色は菜の花、鯛でんぶの淡い緋色は桜の花霞を模して飾った甘い目のすし飯には、やはり甘い酢でしめた蓮と、仄かな潮味のみで茹でた芝エビが添えられ、キヌサヤの緑が鮮やかな拮抗で飯の画面を引き締める。鉢には春が旬の野菜にタケノコ、地鷄を軟らかくも瑞々しく煮て加えた“炒りどり”が盛られ、しっとり焼いたさわらの焼き物と鰻のつけ焼き。菜ものの緑も眸にはにぎやか、お吸いものには大きなハマグリと来て、それはそれは手の込んだ豪勢な逸品揃い。
「材料を揃えるだけでも大変なのではないか?」
 山のものに海のもの、こうまでの品数を、この荒野の真ん中の街にて食すことが出来るとは。いかに手広い伝手のある彼らなのかが、語られずとも知れるというもの。調理のほども絶妙で、
「なに、ほとんどは板さんの人徳で都合してもらってるようなもんでして。」
 それにしたって、そんなお人にこれだけのお仕事をさせるには、この道で熟練の彼が見込んだ器の主人でなければならず。若い見目をば裏切って、夫も妻もそれぞれに、人としての奥行きの深い、出来たご両人であるという、これも一つの証しであるのかも。綺麗に整えられた、これもまた蛍屋自慢の静かな庭を眺めながらの昼餉どき、
「…あ、そういえば。」
 吸いものの蓋をなかなか開けない誰かさんに気がついて、ちょいとお行儀は悪かったが、先に自分が開いたその上で、手のひらの上、ゆったりくるくる回していた椀と交換してやる七郎次であったりし、
「はい。すぐに飲めますよ?」
「…。」
 それへとこっくり頷く久蔵だという呼吸も相変わらずな彼らを見ていて、
「とうとう久蔵の猫舌は治せぬままだの。」
 苦笑混じりに呟く勘兵衛であり。それが彼の甘やかしのせいだと揶揄されたような間合いだったものだから、
「何を仰有いますやら。今現在の久蔵殿を、さんざ甘やかしておいでのくせに。」
 いろいろと訊いておりますよ? 年の離れたオシドリ夫婦か、親子というには年が微妙に近いところが再婚相手の連れ子との道行きか。そりゃあお優しい旦那様で、見ているだけでも微笑ましい限り。奥方の方はゆかた一枚畳むでない奔放さなのに引き換えて、
「着物の着付けに始まって御膳の給仕に至るまで、身の回りのことの殆ど全て、勘兵衛様の方こそがあれこれと手を尽くして差し上げているとか。」
 ご自身のことへさえ何にも構いつけなかった昔とは大違いじゃあござんせんかと、そんなすっぱ抜きを、いっそ凶悪なくらいの明るい笑顔で言い放った七郎次であり、
「…何でまた、ここから離れぬお主が知っておる。」
 あえて否定はしないところがまた、侍だからなんでしょうか、勘兵衛様。(苦笑)
「ゆかた?」
 自分のことをも評されていると、そこはさすがに判ったらしい久蔵からも、きょとんという物問いたげな視線を向けられて、
「ああいえ、腐している訳じゃあありませんよ?」
 あなたの方には罪はないとばかり、はんなり応じて差し上げてから。もっといっぱい甘え倒しておやんなさいと、そりゃあ極上の笑顔を向けられて、

  「…。////////
  「? キュウゾちゃま?」

 頬を染めつつすっかり萎縮してしまわれたお兄様へ、ご飯に飽いた小さなカンナ嬢が、母御の傍らから立ち上がり、そのままちょこまか寄って来る。お膝を隠す身丈の和装は、白い小袖の上へ藍の単
(ひとえ)を重ねており、衿元にだけ淡い紫の半衿を重ねたお洒落な揃え。帯の後ろから裳のような布がふわりと下がって、腰回りを膝裏まで覆っているのが、神無村の年頃の少女たちの装束とどこか似ており。母譲りのつやつやした黒髪に、こぼれ落ちそうな瞳が印象的な、小さな娘御の愛らしさを十分引き立てている。そんなお嬢ちゃまがお膝近くまで寄って来たのへ、
「…。」
 案じてくれて済まぬな、大丈夫、何でもないのだよ?と。こんな小さな娘さんへ、ただじっと見つめ返すだけで伝えようとするお兄さんもお兄さんなら、
「そですか?」
 かっくりこと小首を傾げ、案じるような神妙なお顔をしつつ、小さなお手々を下から伸ばし。赤かった頬をそっと撫で撫でしてあげるお嬢さん。今の受け答えって…もしかして。
「………通じているみたいではありませんか?」
「そのようだの。」
 さすがはアタシの娘ですねぇ、人の意を酌む血統ってやつでしょうか。のほのほと親ばかぶりを披露した若き父御へ、
「誤魔化すか。」
「じゃあなくって。お怒りはゴロさんとヘイさんにも当てて下さいな。」
 話の続きを蒸し返されて、七郎次が今度こそはと真面目なところを応じて見せる。
「何たって、あの方々があちこちに広めてる電信のお陰様で、お二人の噂もすぐさま届くって順番なんですからね。」
 そんな手筈になっていると勘兵衛が直に知ったのは、最初の冬、あの北の辺境での大熊退治をやりおおせてからのこと。名だたる武芸者なんてなものでは、到底なかった自分たちへの情報の伝播、あまりになめらか過ぎはしないかと、どうにも気になっての当地への帰還をしたところが、そんな種明かしをされたのが始まりで、
「最初の内はどこか場当たり的な配置だったものが、今や、確固たる情報網の礎扱い。この虹雅渓での中継局になってるウチの出先小屋には、早亀屋さんまでが相互連絡の確認にって通って下さるほどなんですからね。」
 商売っ気は無しの公共奉仕だそうではあるが、それでも…今時には一番の値打ちものの“情報”というものを、いち早く侭(まま)に出来るようにと、目をつけ手をつけた彼らの炯眼たるや恐るべしというところか。
“アキンドらのように独善へ走らぬ強い心根があってこその、緩やかだが着実な進捗なのだろうよの。”
 過去を忘れた訳じゃあないが、過分には縛られず、振り返らず。将来のことをこそ考えて毅然と歩み出す、ほどよき熟成の足りた ほどよき若さの何とも力強いこと。

  「儂も年を取った訳だの。」
  「………はあ?」

 何が愉快か、不意にくつくつと小さく笑った蓬髪の元・御主に。こればかりは意を読めず、キョトンとして見せた七郎次であり。それへと代わって紅衣の連れが、くすすとやっぱり小さく笑ったのであった。






            ◇



 まだ十分に秋と呼べる頃合いではあったものの、刈られた後の田圃を染める茜の色や、黄昏どきの侘しさがいやに身に染む、ひりひりとして落ち着けない何日かが、まずは村を覆っていた。途轍もない大乱戦が繰り広げられた無残さは、あからさまな痕跡となって大地に刻まれていて。荒野には機巧型侍たちの亡骸が累々と四散し、山のような巨大戦艦が少しずつその巨躯を崩しもって撃沈したことをありありと示すように、主機関から始まっての様々な落下物、鋼の甲板やら大きな機関の一部やらといった残骸が、帯のようになってその進路を描いており。とんでもなく無残な姿になった虚体が尾を引いて吐き続けていた黒煙は、墜落した先の谷底から、一体何への名残りなのか、数日ほどもの間 立ちのぼり続けていた。新しい天主の、初めての御行幸。各地の村を回り、自分が手配した侍たちは役に立ちましたか? 野伏せり退治はつつがなく進んでおりますか? 生活に不備不自由はないですか?と、その効果を見聞するのが表向きの目的となっており、そんな“若いに似ず慈悲深い”天主様の身に降りかかった災難は、少しずつ、風の噂という格好で各地へ広まったものの、さてそれからどうなったか。

  『どえりゃあことが あったらしいな。』
  『んだんだ。何でもでっかい船が砂漠の真ん中で落ちなすったんだと。』
  『事故か?』
  『さてのう、生き残りは おらなんだそうやからのう。』
  『事故やないとしたら?』
  『さても、船ごつ落とさりゅうほどの
   たいそな恨みぃ抱えていなさった御方じゃったんかのう。』
  『どうやろかのう。』

 あちこちの町や村に影響力があり、民衆の頭上におわした“天主様”という存在ではあるものの、それはあくまでも領主や差配のそのまた上の惣領様というお立場であったからこそ敬ったという順番。米を主柱にした流通で世界を支えていたといえば聞こえはいいが、利潤優先の独善ぶりは、無法者の野伏せりたちとの裏での結託などという暗部も抱いた醜い代物でもあり。真相に間近い者であればあるほど、それを暴くことから明らかにされる事実が諸刃の剣であることを承知していたがため、手をつけることをためらった。
また、大義も狭義もなくの一番に判りやすい事情として、広域世界の流通というものの束ね、大差配や大アキンドがほぼ全員、一遍にいなくなったものだから、居残った者らはすぐ明日のことで手一杯。もう明日のことを考えないで良い方々のことにまで関わっている余裕はないとばかり、目先のことで奔走する日々へと否やもなく駆り出され。どうせ仕置きする人や機関もないのだからと、誰も真相究明に手出しをせぬままの状態が、しばらくほどは続いているようだった。





 噂は噂。確証というものがない以上、例外なく少しずつ薄れてゆき、いつかは掠れて消えゆくもの。新・天主への世代交代自体、世界の隅々にまで広められていた訳ではないほどの急展開の最中で起きた騒動なだけに、どこまでが“噂”として曖昧模糊なまま忘れ去られてくれるものか。
“アタシらがそれを言い出すのはさすがに虫がよすぎますが。”
 何せ右京は、ここから一番近い都会である虹雅渓の差配の養子だった男だ。彼の天主就任の広めともなった勘兵衛の公開獄門も、その虹雅渓で執り行われたほどであり、
“綾摩呂殿が復権すれば、風向きもまた変わろうが。”
 誰にも止められないと思われていた激流のようだった事態が、ギリギリのところにて停止したばかりという今のところは。その風向きもまだ、どんなそれがどこへどう流れ出すものか、断じるほどの安定は見ないままであろうから。気の逸りからこれと決めてかかるのはそれこそ早計というものかも。
「…っ。」
 ぼんやりと考えごとになんぞ気を取られていたせいか、何ということもないような道の途中、足元不如意で躓きかかった七郎次であり、その響きが腿の銃創をもろに叩いた。激しい銃撃戦の最中に居続けだった身には、深々と食い込んだ銃創も二、三あり、掠めただけの傷なら全身に数え切れず。自分や勘兵衛、勝四郎はその程度で済んでいる悪運の強さだったが、久蔵と平八はかなりの重傷を負い。同じ侍の仲間内でさえ息を飲んでの呆然自失、とりあえず呼ばれた近在の医師が出来る限りの処置として、止血や痛み止めの投与という応急処置を施したものの、それ以上はどう手をつけていいものなやらとの心許ないお言葉しかいただけず。そして菊千代は、虹雅渓まで専門医を呼びに行った五郎兵衛と途中までを同行したコマチと利吉が、途轍もない灼熱と衝撃波によって散り散りになったろうその躯を、翼岩の周辺にて捜索中。
「………。」
 二日と数刻を経過した今朝方やっと、恐らくはとんぼ返りという強行軍にて。虹雅渓から、初老の外科医師とそれから、彼らには懇意の刀鍛冶、正宗殿とを連れ帰った五郎兵衛殿で。まずはと意識の戻らぬままだった平八への診察と治療が施され、数時間もかかった救急の外科手術を執刀したそのまま、今度は久蔵への診断に取り掛かった医師殿。正宗殿と余り変わらぬ年頃の、気骨の逞しそうな彼は、心配そうに経緯を見守る顔触れを見回し、その中から勘兵衛を選び出すと、
『よろしいか? 今からこの御仁へと施すは少々荒療治での。補佐する人間が必要だ。』
 先程まで、それは集中力を要する外科手術を手掛けていたその疲労を微塵も見せず。いかにも芯の強靭そうな眼差しを、勘兵衛の双眸へひたと据え、
『麻酔をかけぬままの骨接ぎと腕全体の筋の修復。神経を傷めぬための手探りの術だよってな。終わるまでは止められぬし、それを負った時の痛みなぞ比べものにならぬ、地獄の責め苦のような激痛に襲われる。』
 それに耐えられるというのなら、この腕、必ず完治すると、某(それがし)のこの首を懸けて約そうぞ。
『…断ったなら?』
 今でさえかなりの苦痛に耐えている身、そんな酷なことを選ばせるのはと案じてか、七郎次が尋ねると、
『義手を誂えて差し上げる。』
 これまた迷いのない答えがすっぱりと返って来、訊いた七郎次が思わずのこと、自分の機械の左手を、ぐっと握り締めてしまう。そこへ、
『………構わぬ。』
 医師殿と勘兵衛らとの狭間に横たえられていた、当の久蔵が声を差し挟んだ。
『義手を厭う訳ではないが、そちらは後にも選べるのであろう。』
『ああ。そうさね。』
 医師の素っ気ない応じに顎を引き、熱に浮いた眼差しのまま、任せるとの瞬きをして見せて。それから取り掛かった治療というのがまた、傍らにあるだけでも居たたまれなくなるほど凄まじく。あの、我慢強くて寡黙な久蔵が、咬み殺し切れない唸り声を必死の様相でこらえ。そんな彼をその懐ろへと抱え込み、掴みかかるも咬みつくも、構いはせぬとの壁代わり、押さえ込む役を任じられた勘兵衛様。
“あれは堪らぬことだろな。”
 選りにも選って勘兵衛を相手に、弱音を吐いたり取り乱すだなんて出来やしなかろう久蔵であろうし。我慢強いし意地っ張りでもある彼の、そんな忍耐の極限を、その懐ろで引き受ける勘兵衛もまた、我が身を裂かれるほど辛かろう。舌を咬まぬようにと折り畳まれた手拭いをその口へと咥え込み、傷めた腕を容赦なく引かれるその度、懸命に堪えつつ…それでも洩れる短い声を、彼の痩躯ごと抱きしめて押さえ込む。手当てに取り掛かってから、早くも一刻は経ったであろうか。あまりの痛々しさに、聞いていられず見ていられずで、逃げるように外へと飛び出した七郎次だったが、何とか気持ちを落ち着けると、他の負傷者たちの手当ての様子などを見て回り。それからさてと戻って来れば、
「〜〜〜〜っっ!!」
 声へと成りかかり、それも間違いなく悲鳴を上げかかった久蔵の、くぐもった呻きが響いて、それから。

  「…よ〜し終わりだ。よく堪えた。」

 医師殿のついた、溜息混じりの声とが聞こえて。戸前にて立ち止まっていた七郎次が、思わずのこと自分の胸へと当てていた手を文字通り撫で下ろす。そのままそっと戸を開けば、
「最後のチクッとだ、我慢しなよ?」
 医師殿が細い注射器を取り出して、小袖姿の久蔵の、袖をめくり上げられた肩口へとそれを素早く当てている様が見て取れて。
「痛み止めだ。もう痛くはなくなるよ?」
 彼の側とて、二人の重傷者を続けざまに診た身、ずっとの集中でずんと疲労困憊であろうに。じっと耐えてた患者へといたわりの言葉を掛けてやってそれから、次の処置だと、町から提げて来ていたずた袋を掻き回す。
「そこの兄さん、この中の粉を水で溶いてもらえるかな? 分量は書いてある通りだ。」
 ほいと放って寄越したのは、骨折固定用のギブス用の石膏が詰まった袋であるらしい。受け取った七郎次、頷くと手頃な鉢を棚から降ろし、水瓶から汲んだ水で粉をていねいに溶き始める。それを見届けると、再び患者へと視線を戻し、
「これから腕ごと固めるから、もう安心ってものだが…但し。乱暴をしてぶつけたり捻ったりはしないよう気をつけな。」
 こらえ続けで小汗をかいて、仄かにやつれたお顔へそうと語りかけ、
「本当によく気張ったもんだねぇ。こんな若くて細っこいお兄さんが。」
 今さっき医師殿が手掛けた療法は、痛さのあまりに大の男が途中で音を上げ、医師や補佐のお仲間などへ抜刀することも多かりしという、恐ろしい謂れの大有りな治療法であったそうで。
「こんな華奢なお人では到底耐え切れまいと思っておったが。」
 今はすっかり力を抜いて、ほてりと凭れたお相手の懐ろ。体格の差のみならず、憔悴し切った加減もあってのこと、悄然として小さく見える背中が何とも痛々しかったし、
「…。」
 そんな久蔵をいたわるように見やりつつ、壊れ物のように抱きかかえている勘兵衛までもが、その気色へどこか疲弊の陰を滲ませているところが、いかに酷な治療であったかを重々と物語っていて。
『尻腰のないことで、逃げ出してしまって申し訳無い。』
 のちにそう言って七郎次が謝ったところが、
『いや…お主があの場に居残っておったれば、我ら双方、尚のこと無理なこらえを重ねたと思う。』
 そりゃあ真摯なお顔にて、そんな風に言われてしまったくらいだったりし。なればこそのお返しということか、
「そう見えるのも無理はないが、その御仁、実はその若さで大戦中には大活躍をしたお侍だよ?」
 石膏を練りながら、七郎次が軽口のような言いようを医師殿へとお返しする。何もそこまで、こんな不安定な時期に、わざわざ部外者へ言わずともと、一瞬勘兵衛が眉を寄せかけたものの、
「よせやい。そんなお若い人じゃあ、年の勘定が合わないよ。」
 冗談はよしとくれと笑って取り合わない医師殿だと見て、七郎次が殊更に口元を引き上げて笑ったのを見、ああそうであったかとやっと合点がいった。最初から“冗談”として取り上げておけば、徐々に怪しまれる恐れも薄くなる。あの広野を突っ切って、急だと招かれた医師殿だ。途中の惨状を見、この負傷者を見て、自分らへの疑念を抱かないはずはなく。
“…まあ、疑念を抱かれたとて、悪あがきをするつもりはないのだが。”
 自分を斬れば逆賊だと叫んだ右京へ、構わぬと言い切った心に二言はない勘兵衛であり。ただ、もしも悪あがきとやらが許されるのであったなら、他の若者たちは関わりなしと言い逃れられればとだけ、心中のどこかに往生際悪くも転がしていたりしたのだが。
「…。」
 そんな心を見透かされたか、ふと、懸命に背へと回されていた久蔵の腕にくっと力が入ったのに気がついた。どうしたかと間近な懐ろの中を見下ろせば、
「…。」
 何か言いたげな顔をするのだが、口を開きかけては…躊躇してかそれとも、言葉が出て来ないのか。その口唇を閉ざしてしまう彼であり、
「? どうした?」
 低い声を掛けてやると、再びのこと、背中に回した左手をぎゅうと懸命に握り締め、小さな小さな声で言ったのが、

  「もう、仕事は しまいか?」

 年端のゆかぬ子供のような訊き方をする。だが、そんな懸命な一言が、今の勘兵衛には殊更に、胸の奥底へじんと染みてそれは切ない一言でもあって。じっと見上げてくる赤い眸へ、深々と頷いて見せると、

  「ああ。もうしまいだ。」

 くっきり応じてやれば。その意味を知る七郎次が、ついついハッとして顔を上げるのとほぼ同時。

  「…俺のものだ。」

 ぎゅうとしがみついた力の、何ともいじらしいことかと思うほど。すっかりと体は萎えているのだろうに。絞り出すようなか細さで、安堵に満ちた声がした。真っ赤な胡蝶が、ひらりと舞って。この胸へと降り立った、その切ない響きよ。到底 人ではあり得ぬような、刀の申し子、鬼神のような存在だったものが。誰ぞの温みを求めるようになり、この胸へ掻い込めば安堵の息をつくようになり。高みから降りて来て人となったその最初に、我らへ添うてくれた幸いを、失われるところだったこの温みを、大事にせねばとしみじみと思った勘兵衛であり、

  「さて。それじゃあ腕を固めようかね。」

 何とも微妙な会話は、彼へも聞こえていただろに。正宗殿よりは少々がっつりした体躯の医師殿、平然としたお顔で立ち上がると、石膏の様子を確かめ、患者の元へとすたすた運んだのでありました。




            ◇



 ひやっとする石膏で包帯を幾重にも巻き重ね、固まるのを待つうちに。一通りの養生が済んだという安心からだろう、久蔵がいつの間にやら寝入ってしまって。
「こいつはなかなか肝の太い御仁だねぇ。」
 こんな役者みたいな見かけをしなさっているのにねぇと、医師殿、ますます感心したらしい。とはいえ、
「あの治療をこらえ切ったお兄さんだが、その苦しみは眠りの中や何かにふっと蘇ることがある。」
 子供の夜泣きのように、悪夢に魘
(うな)されることもあるだろうから、いいね、気をつけておやんなさいと。傍らにいた二人の大人へ言い置いて、さあてとと背中や肩をこきこきと延ばしたところへ、表から入って来たのが五郎兵衛であり。
「どうしたね。そっちの患者が起きたのかい?」
「いいや。まだまだぐっすり眠っておられる。」
 彼だとて、強行軍にて虹雅渓から戻って来たそのまま休んでいない身。怪我だって完全な復調とは至っていないのだから、一刻でも休んでほしいところだというのに、
「医師殿に寝床を手配したのでな。」
 食事もそちらへ用意させていただいたのでと、お迎えに来たらしい。
「正宗殿と同じところになってしまうが、構いませぬか?」
「おうおう、構いませぬぞ? あの御仁、なかなか面白い気骨の爺様だ。」
 さして年齢は変わらぬようにも見えるのだが、だからこその洒落っ気か。そんな言いようをし、わははと豪快に笑うと、五郎兵衛の案内で寝屋の方へと向かって行って。

  「……………。」

 気がつけば黄昏が間近い刻限だが、まだ陽はあるというのに。ふっと。夜中の底にでも居るかのような静寂が室内を満たした。昏々と眠り続ける久蔵の、静かに静かに刻まれている寝息が拾えるほどであり。そんな静謐の間合いを、幾つほど数えてからのことだったか、
「…本当に、ようございましたな。」
 やっとのこと。七郎次がぽつりと呟いた。石膏を真っ直ぐのままに固めるという段取りの間中、久蔵のその腕をじっと見下ろしていた彼であり。治療が無事に済んでという意味かと思っていれば、

  「勘兵衛様を捕まえることなど、
   到底、どこの誰にも出来ぬことと諦めておりましたが。」

 彼が感じ入ったのは、どうやら別の次元の話であったようで。
「これでもう、自分がお嫌いだからとか、幸せになってはいけないのだとか、往生際の悪いことは言えませんよ?」
「…シチ。」
 よさんかと咎めるような声を出しかけたものの、
「…ん。」
 そんな彼の懐ろの中、最初の体勢から余り変わらぬままに抱えられていた金髪の剣豪殿が、小さく身じろぎをし。無事だったほうの手で、勘兵衛の着物をぎゅうと掴みしめるに至り、
「…そうさの。悪あがきはもう無理なのかも知れぬな。」
 そんな感情を持つ自身を厭っての、罪人のような昏い眸ばかりを見せていた彼が。小さく口許をほころばせると、懐ろに凭れたままの久蔵の、ふわりと柔らかな髪を、いかにも愛おしいという顔になって撫でてやる。

  「いつの間に、なのだろうかの。」

 最初はその腕がほしいと純粋に思った。餓えている双眸が孕んだ微熱も心地よく、今時に彼ほどの侍はいないとまで惚れ込んだ。
『…お主を斬るのは、この俺だ。』
 これほどまでの腕を持つ練達の存在に、向こうからも関心を持たれ、容赦のない殺気を向けられる、得も言われぬ緊張感の奥深さ。一種の冷ややかさとそれから、身の裡に掻き立てられる拍動が生む熱の、何とも甘美な味わいであることか。それが…間近に迎えた彼を見るうち、様々に無垢な部分がある可愛げにも気がついて。自分への真摯な執着にあてられ続けたその内に、気がつけば…愛おしいという感情が生まれていたようで。

  “あの時は本当に…ゾッとしたものだ。”

 身の毛がよだつとはよく言ったという実感を、しみじみ味わったあの刹那。勝四郎の構えた機銃の先に、この久蔵が飛び込んで来ようとした気配を感じたその瞬間。血の気が引くような想いと共に、気がついたら体が動いていた。傷めていた側の腕を掴んだのだから、さぞかし痛かっただろうが、その機転のお陰で今こうしてこの温もりが此処に居る。
「情と同じで、恋心というのはそういうものですよ。」
 言ったそのまま七郎次がくすんと小さく笑った気配へ…さすがに照れてか。そんな可愛いものではないと、言い返しかかった勘兵衛だったが、
「芽吹くとあっと言う間に育っていて。気がつけば相手の視線や何やであっさりざわめく、真夏の草原みたいになってるから始末に負えない。」
「…詩人のようなことを言うのだな。」
 五郎兵衛殿からの感化かの? 何とか茶化して逃げたいらしい主殿だったが、そうは行かないと七郎次は苦笑をするばかりであり、

  “とはいえ…。”

 うっかり忘れていたのはもしやして自分だけなのか。彼らの間には確かあの、物騒極まりない約定がなかったか?

  『野伏せりを斬ったらその後で、刀での決着をつける。』

 はてさてどうするおつもりか。まま、それもこれも久蔵が完全復調してからの話だろうけれどと気を取り直し。くうくうと気持ち良さそうに眠り続ける小袖姿の若侍さんを、何とも言えぬ心持ちにて見やったお二人。新しい旅立ちまでにはまだ遠いとの実感を、ほんの数日後に否応なく噛み締めることとなる。





 
←BACKTOPNEXT→